「ボンクラ」と「依存症」。

このタイトルからは、頭ごなしに他人のことを罵倒するようにも読めるが、そうではない。
むしろ、自分のことを言ってるようにも取れるんですよ。
要らんことをくよくよ考え、有益なことをせず、自殺について考えたりして、ボーっとしているのはまさに「ボンクラ」だし、「酒でも飲まにゃやってられん」と考え、実行するのは「依存症」だと。
ネット言論(?!)の今日的到達と課題について考える。
「ボンクラ」とは、漢字で表現すると「盆暗」である。
昔、博打を行った「賭場」において、花札、サイコロ等々種目はいろいろあるが、競技の結果について予見する「勘」が尖鋭な者を「盆が読めている」といい、その反対の者を「盆に暗い」と言ったところから来ている。
人が、書いたり、発言したりするのを見聞するに当たり、非常にその識見が優れていると思われるときには、「この人、盆が読めてるなあ…」と感心するものである(口に出しては言わんが)。
今回の件につき、「陰謀派」の方々の書いているものを読んで、「盆が読めてるなあ」と膝を打つものは、はっきりいって見受けられない。なんとなれば、それらはたいがい「結論先にありき」であって、否定されるでしょうが、「イデオロギッシュ」だからである(高名な法律家の方、この業界の有名人、例外なく)。
あえて挑発的に「イデオロギッシュ」と書いたが、「イデオロギーを超える」としてなされる言説(ex.日韓関係における「未来志向」)は、得てして、イデオロギーを持ち込もうとする者を排除するという意味で、すぐれて「イデオロギッシュ」なんですね、わかります。
「盆が読めてる」と評価しうるものをものするには、相応の社会科学的素養を要すると考える。別に、「学をひけらかせ!」言うてるんじゃなくて、べースはごく基礎的でもよいので、思考の発展の過程を見せろということ(ありますよねえ、「マスゴミ」とか呼号してるくせに、ソースは商業メディアのコピペばっかりとか)。
「ボンクラ」を支えるのが、「素人性」と「依存症」だと解する。
「依存症」については、大きく類型化すると、「素人性依存症」と、「多数派依存症」があると見ている。
前者につき、前述の通り、「脱イデオロギー」は「イデオロギー」から逃れえない。
後者は、「郵政選挙は詐欺だ!真の多数派は自分らだ!」とゆう形で出てくる。
世論の雪崩現象とか見ているに、「多数派依存症」は、この国の人に普遍的に内在させられているようにも思われる。「KY」とか。
でも、「多数派」じゃないと、正しい事って言えないんでしょうかねえ。ガリレオとかコペルニクスの爪の垢煎じて飲めよ。
最後に問題とするのが、「自己語り」(@中西新太郎)だ。
あまり一般的なタームではないが、段階を追って解説する。
1、話者には見識も権威も無い。
2、話者が、自らを「キャラ立ち」させる。話者=「オレサマ」。
3、「オレサマが、こう言うんだ。わかるか。納得するだろう…?」
4、聞き手、「キャラ」に引き込まれて、説得されてしまう。
中西先生が「自己語り」を提唱した時念頭に置いたのは、当時のコバヤシヨシノリとか、ヤザワエイキチとか、ナガブチツヨシだったと記憶する。
(近年で言うと、コイジュミとか、ハシモトとかか(?))
しかし、ネット上で、「素人の自己語り」を発見した時、慄然としたのよ私。
この手を使ったら、内容をいくら批判しても、響かない。
最後に、自分について。
うだうだ書くしか手が無い。これがスタイルと腹をくくる。
今、客観的には孤立している情勢である。
家人なら、「信念貫きゃいいじゃん!」とか言いそう。無責任な。
これ書くといろいろ言われそうだが、最後っ屁として。
「私はあなたとは違うんです。」
でわ。